sexta-feira, 16 de outubro de 2020

 

           徳川家康  

 


 

二歳のとき母とわかれ。母は自家に帰さられた。六歳のとき、今川の人質される途中に織田家の方から奪われ。父の松田弘忠は構わなかった。八歳のとき、父は他界。九歳から十五歳まで今川の人質。。。

こんなひどい運命の家康は素直に育った。生まれたときの名前は竹千代。家族の愛情を知らない竹千代は大名たちの安全に利用され。やり取りに使われた貨幣。。。幼いときは修道院に僧侶たちと。。。

とにかく、家康は静かな性格で我慢し。次第に強くなって、日本一の将軍に。

二年間に織田家にいったとき、信長から兄分として可愛がられ。あの尾張のうつけてよばれた信長から。 馬乗りや泳ぎや件の使い方を教えてもらい。。。そのときが一番楽しいかっただろう。

戦国時代。権力の強い大名が弱いたちの土地や城を攻め寄せ。百年以上続いた戦国にまだ数百人の大名が争っていた日本中は混乱。

そのとき、今川軍が織田の城を攻め。そこに、信長の兄貴が人質され、今川義元から、兄貴を助けたいなら、竹千代を帰せ。仕方なく、竹千代を手放し。これから、竹千代は今川の人質。。。

十五歳のときに、家康は元服。そして、信長を打てと今川から。あの優しい方を?家康は困った。でも命令は命令!幸に信長が先に出て、義元を殺し。

義元が死んで、家康は自由になった。それで信長と同盟。二人は敵の大名たちを滅ぼし、土地を占領し。やっと国を平定し。千五六七年に名前を徳川家康。そしてだんだん強い大名に。

三河に門徒と言う集団があった。その集団には僧侶/兵士の大勢が暴れまわり。家康が攻撃してその門徒を滅ぼし。たくさんのお寺も倒し。

つぎに家康はあの怖い甲斐の武田信玄と同盟し。今川家を目指し。みんな絶滅し。

家康の権力が発展すると、信玄は怒るばかり。やがて北条氏康と徳川の土地に攻め。信玄の勝ち。。。

その後に、急に武田信玄が亡くなり。あの信玄が?信じられない出来事!

それでも戦争は続く。なくなる前に、信玄が子の勝頼に甲斐に静かにしていろ。勝頼はそれを忘れて、三河の長篠の城を攻め。今度は家康は用意して待ってた。信長も三十万人の兵をつれて。すさまじい戦いでした。地面は血塗れ。。。勝頼はにげた。

家康の奥方と息子が信長の権力に不快になて。勝頼と待ち伏せをたくらんで、信長を殺そうと。それを知った信長から家康に二人を殺せ。残酷な出来事、家康は奥方を実行し、息子は腹きり。それで家康の誠実がはっきりし。殺すか殺されるか。。。

争いが終わったのは千五八二年。それは織田と家康の軍隊が武田の甲斐を占有し、勝頼は腹きり。武田家が無くなり。

信長の計画通りにうまく戦争が終わったときに恐ろしい出来事が。明智光秀が信長を殺し。。。そのことで大騒ぎが日本中に。せっかく平定になった日本にまた戦争なの?国民たちが恐れて、心配。。。

信長が無くなって、家康がその後を継ぐ事があたりまい。しかし秀吉が先きに出て、光秀を夢中に追いかけ。。。復習をしなきゃ。そして織田家を守る。秀吉の邪魔で家康は将軍になれなっかた。

やがて、跡継ぎの問題や織田家の財産を不正に分け。信長の息子信勝が家康と秀吉を攻め。六ヶ月続いても対面は終わらない。秀吉から和睦を。家康が敵より相手に。

やっと、秀吉と家康が力をあわせ。

次第に、秀吉は将軍の任務に着いた。関西と西の地方を経営し。家康は関東と東北地方を。

その時、秀吉にとっても信頼していた一人の若い男がいた。た石田三成は財務担当者。三成は主な役目について、野心を抱い。それで家康が秀吉と親しいなるほど不快になり、こっそりと何か企んで。家康はただ黙って見てった。

その三成は秀吉の奥方と親しい。奥方は信長の姪。何時か秀吉を倒そうと家康に告げ。けれど、家康は抜け目ない人。

信長の死の後、強い大名達が甲斐の城や財産を奪おうと。。。ですから、家康と北条の間に争い。それも家康が解決し。そのうちに、秀吉は復習を目指し、明智光秀をおいかけ。。。光秀は偶然に一人の農家から殺され。

まだ一人の大名が従わん。北条氏康はかなり強い武士大名。関東の地方で八か国を治めて。

家康と秀吉は二十万人の兵を引き連れて攻撃。。。北条は全滅され。。。

その後に家康が関東の八か国の持ち主に。日本で二番目の殿様。一番は確かに秀吉。

家康は関東の北条の家来や家臣や臣下たちを平定にし。その物たちから尊敬されるほど。

 家康は引き下がりながら勝った そう日本の歴史にある。

秀吉が重い病気でもう助からないて思ったとき五人の大老を任命し。。。徳川家康、前田敏家、毛利輝元、浮田秀家 と 上杉景勝。役目は幼い息子の変わりに国の政治をとること。

秀吉死の後、家康は秀吉の敵だった大名たちと手を結び。そして大坂城を取り締まる決意し。そのことで大老たちと三成が怒って、家康に反乱し。大阪城に秀吉の跡取りと母が過ごして。三成はあんまりに怒って家康を殺そうと。。。家臣たちに追いかけらて、女姿で逃げようと。。。でも家康から助けられ。何故か。。。家康に理由が。。。

それでも大戦争が始まった。

東の軍隊に家康

西の軍隊に三成と大老達

関が原の戦いは岐阜県の田畑で。これは日本でいちばん大切な争い。二十万人の兵士。三成に十二万人んがついて。されど、家康が大老達と話し合って、大勢の兵士が西から東にうつった。それで小早川と毛利輝元が三成を裏儀って、家康についた。三十万人が死亡。残酷な戦い。。。西の軍隊は滅ぼされて、三成と主な家臣達はみな殺され。

この結果で家康は日本を治める政治家になり。敵から奪った土地や城を相手たちにわけ。たくさんの大名たちも殺し。秀吉の息子秀頼は普通の国民として大阪城に過ごすことが許され。

千六百三年に、家康は朝廷から将軍の座をいただいた。 何十年も待ってった。秀吉から邪魔されて。。。将軍として、家康は江戸城を建設し、日本で一番大きな城。現代は帝の城。占領した国を平定し、国民が安心して暮らすように。

千六十一年に、家康は五十万人の家臣たちを連れて京都にたどり着いた.後水尾天皇が冠をいただく式に。式の後、家康は朝廷の城やほかの建物を改造させ。もまた、西の三成についてった大名たちに忠実に従うの約束。まだ、貴族たちは将軍の家康に監督される、あの偉そうな貴族たちをただの飾り物に。。。それで朝廷の帝の家族から貴族達がはっきり遠ざけられ。

でも、家康も惨いなことを。。。外国人が日本へついてキリスト教のことを日本人たちに説教してった。その神父たちを日本から追い払わせった。ほかの外国人達も。オランダ国以外の船も日本へ近ずかないよう。。。日本人は近代化におそれて。古びてった。

信長も秀吉も超えて、信玄 や 三成 と 謙信達を滅ぼして、家康は徳川幕府を開いた。徳川幕府は日本を二百五十年間に導った。

二年後に将軍の座を息子の秀忠にゆずり。それでも、駿府で政治を続け。。。秀吉が跡継ぎの問題で苦しんでったことで、家康は平静に後のことを考え。

まだ重要な任務が残ってった。秀吉の息子秀頼が大坂城で将軍の座を引き受けようと。大勢の大名たちを相手にして批判し。それで、二年間に対面がつづき。冬の囲みと次に夏の囲みで秀頼、その母、息子と孫まで殺され。

しかし、家康は一ヶ月後に他界。七十三歳で。

家康の生涯は惨い年月でした。

家族から捨てられて、幼いときは他人ばかりと過ごし。毎日我慢し、我慢して峠を越え。家族のものを殺し、秀吉に邪魔され、多数の大名達と争い。負けたり、勝ったり。倒頭 征夷大将軍に任ぜられ。

それで天下統一にして日本の国を纏めた。苦労ばかりして日本の英雄になった。ですから、日本人たちは感謝の気持ちで毎年四月に愛知県の岡崎市で家康行列の祭りを行い。男性達が兵士の姿であの酷い時を越えたことを家康のせいて想い。忘れないように。

"人生は長道に重いものを背って、急がない方が良い 徳川家康 (千五四三>千六十六)

たくさんの考え事を残したの中で家康にぴったり会うのはその上の意見と思います。幼いときから我慢、我慢、我慢して英雄になった一人の男。

 

Mirandópolis, outubro de 2020.

奥きみえ

http://cronicasdekimie.blogspot.com

 

 

 

 

 

 

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